新幹線の中から見る富士。
何度見てもすごいなと思う。今でこそこっちの見え方だけど、
20代の頃は違う見え方だった。
一緒に上京したパートナーに見限られた僕は、無力を感じ、肢体不自由児の時の支援に携わることになったのだ。
僕の生涯の恩師でもある江尻先生に誘われた、脳性麻痺の子供達を山中湖(山梨)に数日連れていくというプロジェクトだ。
その時の ふくし の視点は、その後僕が医療の道に進んでからもずっと生き続けている。
山梨側から見る富士と、新幹線から見る富士は全く別物。
僕は当時チャラく、いや今でもチャラいのだけれども、それを面白がった朝日新聞の記者が行動障がいのある子供に寄り添い山中湖のほとりで富士山を眺める僕とその子の姿を激写し記事にしてくれた。
その記事、今でも探せばあるのだろうか。
誰かを敵にしてしまいそうだが、僕は山梨から見た富士が好きだ。
好きや嫌いは理屈じゃないから仕方がない。
ん?
そうそう、富士は山梨か静岡かという話だ。
富士山を上から見ることができる人たちもいることをご存知だろうか。いや、大抵上から見ることができる人たちが多いだろう。
でも僕に限っては、それは難しい。知っての通り飛行機ほど危険な乗り物はないと考えている故上から見ることは難しいのだ。
本題に入る。
僕は今東京から帰るための新幹線の中だ。
実はこれまで、飛行機に乗らないのは怖いからだと思っていた。あんな鉄の塊が空を飛べる理屈がわからないし、わかったところでどこの誰だかわからない人間に命を預けるわけにはいかない、ましてや事故の確率が極めて低いとはいえ、何かあった時の致死率は極めて高いのは自明ではないか。そもそもそんなに命懸けで移動をする必要性があるのかという至極真っ当な理由?だと思っていた。
ところが、僕の飛行機嫌いの理由が実は違うのではないかという一つの仮説に辿り着いたんだ。
怖いからじゃなくて、上から見るのが嫌なんじゃないかというものだ。
一つの事象をどこから見るかで見え方は違うというのは、
理屈抜きに当然のこと。
僕は物事を上から見たくない理由で飛行機が嫌いなんだ。
今日ぼくは東京に、近藤恒雄氏のメモリアルイベントに参加するためにきた。その帰りだからこその気づきかもしれない。近藤さんは俯瞰する様なことは決してしなかった。富士の例えで言えば、どっちの味方も正しい、その方向からの見え方が必要な人にちゃんと届くことが大事というものだった様に思う。上から見ると遠い、俯瞰はいらない。ともに、そしてそばでこそ、といったものを実践していたのが近藤さんだった気がする。
よし、飛行機の問題が解決した。
飛行機が怖いというのはもうやめよう。
髪をかきあげながら、まだこの問いに答えなければならないのかと心の中で呟きつつ、ふー、物事を上から見るのが嫌いなんで飛行機に乗るのをやめたんだって言おう。
ついでに地に足をつけ、そばにいたいんだ!とボソっと言おう。
飛行機が怖いなんて悟られない様に。